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カテゴリー「怪獣映画」の記事

レボリューション

公開当時、三ッ目のスマイリーが魅力的だったものの見に行くには及ばず。今頃目に留まったのでDVDで見たが面白かった。Xファイルでモルダー役のデイヴィッド・ドゥカヴニー主演(なつかしい!)で話題になった、おバカSF映画、宇宙怪獣?も出る。以下、記憶で書くので細部はいいかげんです。完全にネタバレします。ご注意。

アイヴァン・ライトマン監督 2001年
アイラ・ケイン:デイヴィッド・ドゥカヴニー
アリソン・リード:ジュリアン・ムーア
ハリー・ブロック:オーランド・ジョーンズ
ウェイン・グレイ:ショーン・ウィリアム・スコット

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ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発

面白かった!個人的に大好きです。以下記憶で書いてるので細部はいいかげんです。全部ネタバレします。ご注意。


洞爺湖サミットの最中に札幌に宇宙怪獣ギララが落下する。札幌の町を破壊し、エネルギー源をもとめて登別発電所に向かうギララ。地球防衛軍日本支部が昭和新山にミサイルを撃ち込んで噴火活動を起こし、ギララをおびき寄せる。地球防衛軍の士官役は、夏木陽介、古谷敏、黒部進で、この3人で怪獣なんか倒せそうな顔ぶれだ。ほかにも特撮怪獣映画ネタがいろいろ。安全確保と各国のギララ対策のため帰国しようとしていた各国首脳は「ギララを倒せば支持率が上がるぞ!」とのアメリカ大統領の扇動に乗せられ、サミット会場に残留、ギララ掃討作戦の指揮を取る。迷惑だ。

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「大アマゾンの半魚人」を見ました。

話に聞いていたとおり綺麗な水中シーンでした。ヒロインと半魚人の泳ぐシーンについては「鏡に映したような」「愛のダンス」という表現を聞いちゃったので、それ以上気の利いた表現をしようとこねくりまわすのはやめにします。まあゆうたら着ぐるみ+被り物であれだけ泳ぎ回る半魚人もすごいですが、生身の俳優さんも海パンいっちょでよくあれだけ泳ぐなあと思うぐらい水中シーン多い。上映時は3Dだったそうで、3Dで泳ぎ回る人や魚や半魚人を見てみたい気がしました。人間がアクアラングを背負って足だけで直線的に泳ぐので、半魚人のうねるようなゆらめくような泳ぎはとても印象的です。異形の生物の美しい泳ぎ、いかつい姿の動きの優雅さ。意外でアンビバレンツな印象のために、ギルマンの醜い風貌がそのうち思索的に見えてきます。

モンスターホラーなので、隙を狙って怪物が襲ってきて人が殺されて、という表現が繰り返されるわけですが、いまどきはCGなんか使って、どんどん怖さがエスカレートしていって気味悪い映像をこれでもかとたたみかけてくるでしよう。そういうのとまた違って、忍び寄ってくる半魚人が怖くてどきどきしながら、ちゃんと見張ってないから襲われる人間をあほやーと笑ってしまうというような、滑稽さと恐さが同時に来るところがゾクゾクワクワク感になるのではないかと思います。ジェットコースターが怖くて、うひょーとか笑ってごまかしてしまうとかの感じに似てる?。そこまで敷延していいかどうかわかりませんが、ヒロインと半魚人が泳ぐシーンも、綺麗な生き物が泳いでいたら触りたい、でも触るのこわい。みたいな。見とれているのか、好奇心なのか、襲い掛かろうとしているのか、「恋をした」のか、異なる感情がまぜまぜになって興奮してしまう。子供にもどったみたいな気分になる。

不気味と感じるか愛を求めていると思うかはとにかく、半魚人はたいへん魅力的なキャラでありました。欲を言えばせっかく美しく知的なヒロインが、悲鳴を上げるのと襲われるの以外の役に立ってないように見えるところが残念だったかな。比較して意味があるわけではありませんが、ウルトラQを見たときは、黒と白のきっぱりした対比と怪獣の肌がとても硬そうにみえるのが印象的でした。こちらは微妙に諧調の移り変わる陰影とギルマンのうろこにぬめっとした触感を感じるのがおもしろかったです。

「空の大怪獣ラドン」

「形態学的怪獣論」のなかに、またもや本の主旨からすると枝葉の部分ではあるがこういう意味のくだりがある。
ジェット機の轟音を聞くとラドンが飛ぶ音ではないかと思って振り返ってしまう。もうラドンが再び現れることはないのだとわかっていても。
わたしはこの部分を読んで涙し、「ラドン」を見ることにした。(笑)

「ラドン」はたしかTVで見たが覚えているシーンは2つきりだった。町に降り立ったラドンの羽ばたく風圧でビルが崩れ落ちるシーンと、仲間を庇って溶岩流の火の中に落ちる悲劇的なラストシーンである。
それで、ジェット機の轟音にラドンを探してしまうのは、この悲劇的な最後を悼むかなり感傷的な感覚なのだと思っていた。
でもそうじゃなかった!
空を飛ぶラドンは無類にかっこいい。晴れやかに力強くかっこいいのだ!

すれちがうだけでジェット機を落とし、飛び過ぎるだけで橋を落とし、飛行機雲を引いて東アジアの空を縦横に飛び回るラドンはぞくぞくするほどかっこいい。そのラドンが、最終兵器などの登場を待たず、自衛隊?の戦闘機の攻撃で速力を失い、最後には阿蘇の火口に隠れたところをこれまた自衛隊の爆撃(に誘発された噴火)で命を落とすというのは私にはいまいち納得できない展開なのだが、ジェット戦闘機自体が科学の粋を集めた最新兵器で、飛行機の大好きな男の子たちにはこれまたすかっとカッコイイの一言だったのだろう。(ジェット戦闘機と競うためにラドンが現れたのかもしれない。)坑道に潜み人間を襲うメガヌロンと群衆の泥臭い格闘の前半も、後半のラドンの鮮やかな登場との対比でなかなか渋いのであった。

佐原健二演じる主人公は、メガヌロンを追って先頭切って走ってるかと思えば、記憶喪失どころか廃人状態に陥り、快復するとまた(もうあまり関係ないと思うのに)ラドン対策本部に陣取るどことなく萌えキャラ?で、これまた無闇にカッコイイのであった。「ゴジラ」で若いときの宝田明がすかっと男前なのにも驚いたが、若いときの佐原健二が後年のクールさとは違ってまたえらくかわいいのも驚いた。髪型ちょっとへんだけどね(笑)。

彼が記憶喪失になるほどのショックを受けた光景、地下洞窟で卵からふ化しメガヌロンを餌にするラドンが、恐ろしいとか不気味とか言うよりは愛らしいのはご愛敬だが、たぶん彼は恐怖のためと言うよりはラドンのもつ巨大な力に感応して正気を保てなくなったのだろう。

ラストシーンのラドンが悲しいのは、とつぜん同胞愛を発揮したラドンを哀れというのでなく、何より速くてあんなにかっこよかった「空の大怪獣」ラドンがあっさりと死んでしまう事へのある種あっけないような驚きから生じる悲しさなのだと思う。

気がつけばもうながいこと空を見上げていないような気がした。そんなわけで花曇の空を飛行機雲でも横切らないかと見上げる今日この頃なのだ。

「ゴジラ」

芹沢博士萌え。と思って読んでいただくほうがよいかもしれません。(笑)

「ゴジラが来る夜に」を読んで、最初の「ゴジラ」を見たくなった。見るだけで何か書くつもりはなかった。何の思い入れもない一見のわたしなぞが「ゴジラ」について何か書くなんて、僭越に思えたのだ。僭越だと思いながら書いている。もしゴジラファンの方がごらんになるのであれば、外野のわかってない感想と思って大目に見て頂きたい。

いわば「ゴジラが来る夜に」の内容を確認するために「ゴジラ」を見た私は、とある一節について「本編を見ても私はそうは思わない」と思った。「ゴジラが来る夜に」「ゴジラの謎ー怪獣神話と日本人ー」の内容にはおおむねなるほどと思っている。知らないから判断できない部分も多いが。今から書くことは、これらの本をきっかけに思いついただけで、反論ではない。これは「論」とはレベルの違うただの感想であること、一部分だけを取り上げて揚げ足を取る意図でないことはお断りしておきたい。<前置きが長えんだよ。

さて、私がきっかけにした「ゴジラが来る夜に」のある一節とは、オキシジェンデストロイヤーを発明しゴジラを倒す、芹沢博士についてのくだりである。
「悪魔の兵器を手にした芹沢と「原水爆そのもの」としての性格を有するゴジラは、ひとつのものといってよい」
「芹沢博士は、現実のすべての華やかさ、強さ、明るさといったものからかぎりなく遠い場所にいる」
「ゴジラと同じ闇をせおう芹沢だけが、ゴジラを闇の世界に引き戻し、封じ込めることができたのである。」

読んで私は「なるほどね」と思った。そして「ゴジラ」を見て、芹沢博士は「闇」に属する人だと言って良いものだろうか、と思った。私はこの人は「まっとうな」「まっすぐな」人であると思う。「闇」はいろいろな意味を含む言葉で「暗い」「悪い」という意味で使われているのではない。それに、ゴジラを軸にした現代批評に対して「芹沢博士ってそんな人じゃないよ」という身びいき発言でまぜかえすのもどうかと思う。そこでそれらしく体裁を整えれば以下のようになる。
「ゴジラが来る夜に」にはいろいろな主張がでてくるが、そのなかに荒っぽくまとめれば「ゴジラは「人間が変わること」を迫る怪獣である」ということがある。そして、私はゴジラも芹沢も人間に変化を迫ると言う点で同類なのだと思う。しかし、「ゴジラと芹沢博士は同じことを主張する」にもかかわらず「ゴジラと芹沢博士は正反対の性格でもってそう主張する」と思う。

本編中の芹沢博士はたしかに「暗い」。初登場シーンなんかむちゃくちゃ怪しい風体だし、2回目の登場(恵美子が新聞記者を伴って訪れる場面)でも「あなたを信用するから見せるのだ」などと言を労して、しっかりした女性のはずの恵美子が悲鳴を上げて実験室を逃げ出すような内容の研究を見せつける、見ようによっては悪趣味な行為だ。黒い眼帯でも隠し切れない傷跡のある顔貌や、白衣の前を無造作にはだけいつも前かがみの姿勢のため、白い半袖開襟シャツの偉丈夫尾形との対比でどうしたって暗い奴に見えてしまう。しかしこれは、オキシジェンデストロイヤーの使用を承諾する時の芹沢の決意を際だたせるための、いわば観客の「この人は得体の知れない人」という予測を「じつはよい人だったのだ」と裏切るための演出ではないのだろうか。だとしたら私はまんまとこの演出に乗せられたわけではあるが。

揚げ足を取るようで申し訳ないが、芹沢博士は「人間を信用していない(恵美子も含めて)」というのは本当だろうか。彼は言葉どおり恵美子を信用したから「命がけの研究」を見せたのではないか。そして恵美子は芹沢の信用に足る女性なのだ。彼女はゴジラに襲われた人々の惨状を見るに見かねて芹沢の秘密を尾形に話してしまう。芹沢の研究を兵器に使用するよう説得するために。そのとき芹沢は裏切られたと思っただろうか。
思わなかったと私は思う。彼は「人間は弱い」というが、弱いことを責めようとは思っていない。恵美子がオキシジェンデストロイヤーをゴジラを倒すために使ってくれと説得にやってくるのは、芹沢にとって当然のことなのだ。言ってしまえば彼は、だれかが、自分の信用している誰かが自分を説得にやってくることを望んでいたのだ。彼が自分の研究が兵器として使用されることを恐れ、隠そうとするのはなぜか。その彼が傷つき逃げ惑う人々を助けられるとわかっていてなお隠し続けられるものだろうか。もし隠し続けたとしたらそれこそ彼は一生心の傷を負い続けることになるのではないか。

戦争によって傷つき、人との交わりを避けるようになったというがそうだろうか。彼は昔から超然と自分の研究に没頭する人ではなかったのか。少壮の天才科学者、将来を嘱望される美貌の青年に擦り寄っていたのはまわりの人たちだったのではないか。彼が今も昔も自分であり続けたが、無残な戦争の傷を見たくない人々が彼を避けるようになっただけの話ではないのか。恵美子にしたところでいまでも芹沢を兄のように慕っていると言明している。もし、芹沢の方が恵美子に好意を寄せていたら、恵美子はそれにこたえたのではないか。芹沢博士は孤独を好む人かもしれない。だが孤独であるからこそここまで考え抜くことができたのではないか。ひとと交わらないことがすなわち心に「闇」を飼うことの証だろうか。それはちがうと私は思う。

ゴジラを殺すことに反対する山根博士についても、娘の恵美子の言葉では「動物学者だからゴジラをむやみに殺したくない」となっているがそれだけだろうか。ゴジラ出現のニュースを聞いて外国から駆けつけてくるのは、ゴジラを退治するための援軍でも、災害救助隊でもない、調査団である。水爆実験を生き延びたゴジラの生命力を研究することはすなわち核の恐怖の時代を人間が生き抜く決め手になるかもしれないのだ。核戦争を勝ち残るのはだれか。強力な核兵器を持つものではなく、放射能汚染を生き延びられるものかもしれない。だが、日本政府は調査どころか、水爆怪獣が国際問題になる前に抹殺することだけを急いでいる。山根博士がゴジラを殺さず研究することを主張するのは、もし核と共存して生きることを真剣に考えるならば、人間もまた変容する覚悟がいるのだと考えているからではないだろうか。だが山根博士も愛する恵美子や尾形に向かって、核戦争に生き延びるためには人間もゴジラのように変化しなければならないかもしれない、などという残酷なことは言えない。だから彼はひとり闇の中でなければ突き詰めて考えることができないのである。

芹沢博士がゴジラを倒すことと引き換えに自分の命を絶ってしまうことを、私は悲しいと思う。なんとかして芹沢博士に生き続けて欲しいと思ったし、清濁併せ呑むことができるのが健康な精神であまりにも潔癖なのは病的だとか、「現実的な」「次善の」選択をすることも必要だとか、とにかく生き続けてあとのことはそのとき考えればいいとかいう考え方で芹沢博士を思いとどまらせることができるだろうかなどと考えた。でも、彼は死ぬことによって兵器開発にかかわるすべてのひとに、すべての科学者に問いかけているのではないか。「あなた方は最善を考えて選んだのだろう。でもその選択は本当に命がけで考えた結論なのかもういちど考えて欲しい」と。彼は人間の弱さをも愛しているが、その弱さに屈するだけが人間でないことを身をもって示したのだ。

ゴジラの生き続ける世界は、人間が核のある世界に順応して変化する世界である。芹沢博士の生き続ける世界は、人間が大量破壊兵器を手放して変化する世界である。しかし、人々は変わろうとはしない。けが人や孤児をよそめに「商売上がったり」と陳情に訪れる人々はあすの変わらぬ生活をのみ信じている。尾形や恵美子にしてもゴジラ上陸のニュースを聞きながら、自分たちの交際を恵美子の父に認めてもらう算段をしている。水爆怪獣だなどと公言したら国際問題という国会議員も今の秩序を維持することだけを考えているのだ。人はゴジラがいなくなって自分たちの平穏な?生活が続くことをのみ望んでいるのだ。

人間を見下ろすゴジラは怖い。だが、オキシジェンデストロイヤーの泡のなかに溶けてゆくゴジラは美しい。ゴジラには人を害する意図も悪意もない。ゴジラはただ力である。だからその滅び行く様は悲しくて美しい。そのゴジラの美しさを見つめ続けられるのは芹沢博士の隻眼のほかにはない。それは彼が人間としてそこにいるからである。人間に傷つけられてもなお人間を信じること。ゴジラを滅ぼす力を持っているのに、それが人間を害することを恐れて自分も力も消し去ってしまうこと。それを強さと呼ぶかと弱さと呼ぶかは字面の問題である。結論の出ない考えや迷いや行き場のない想いを身の内に抱えつづけられる者が、大雑把にまとめてしまえば人間であることを突き詰める者だけがゴジラに向き合えるのだ。だが、ゴジラを見つめる芹沢博士の眼は、おまえもおれも人の世を変える事は到底できないのだ。と、そういっているように見える。深く考えず変わらぬ生活をのみ望む人々のために、おまえとおれは滅びるのだ、と。そういう意味でゴジラと芹沢博士は同類であり、かつ正反対であるのだ。

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